【まんが・コミック感想】長宗我部元親 (SPコミックス SPポケットワイド) 岡村 賢二 【レビュー】【ネタバレ注意】 

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長宗我部元親 (SPコミックス SPポケットワイド) 岡村 賢二

 

これは、本州で織田信長公が天下統一を推し進める
その時代に生を受けた一人の男の物語
四国地方の戦国時代を生き抜いた男の物語

なお、ラスボスは島津のぼっけもんズの模様

 

長宗我部元親 (SPコミックス SPポケットワイド) 岡村 賢二
あらすじと感想

 

こんにちは、こんばんは
エビシャコです

レビューまいります

 

・長曾我部元親とは?

 

四国に生を受けた武将です
本州で大暴れした信長公や武田信玄公や北条家などのおかげで
影薄いかもしれませんが・・・

ゴメンナサイ

彼が生を受けた当時は戦国時代真っ只中
四国と言う島国日本の中でも海に囲まれ隔絶された地ですが・・・
ここもまた戦国時代の例外ではなく
長曾我部の一族もまた、親類同士で争う戦をしていました

ですが、長曾我部元親はそれを苦々しく思っていました
それが、彼の戦い方に如実に表れています

まず、彼は必要意外殺そうとしません
これは当時としては珍しい事で、あの武田信玄公ですら父親を追放し
伊達政宗公も自分を殺そうとした弟を手にかけています

そんな戦国時代に蔓延る血で血を洗う争いに嫌気がさしていたのかもしれません
父親の代からの因縁の敵である本山家を追い詰めはしますが
その都度逃がし、最終的に籠城戦に追い込みます
普通はここまで来たら一気に攻め落とすなりしますが、彼はそうはしませんでした
仇敵である本山家の当主・茂辰が病死するとその傾向はますます強まり
「むしろ急ぐ必要がなくなった」と包囲を続けるにとどめます
ここが彼と他の武将たちとの違いでしょう
後を継いだ甥の親茂には「全く恨みがない」とまで言い切り
降伏するまで待ちました
彼にとっては親茂は「可愛い甥」でしかないのです
そして、ついに彼が降伏すると、自害する前に自ら出向いてまで自害を止めて説得
ここに長曾我部家と本山家の争いは終わったのです

 

・織田信長公との関係

 

長曾我部元親が四国での争いの平定に心血を注いでいる間にも
時代は動いています、待ってはくれません
時の将軍・足利義昭の敷いた「信長包囲網」は「比叡山焼き討ち」という奇策で一角に穴が生じ
さらに武田信玄公が病死したことにより包囲は事実上瓦解
浅井・朝倉も討たれた上に将軍は追放されて室町幕府はここに終止符を打たれます
(なお、追放処分にされた将軍・足利義昭はその後も懲りずにあちこちに反信長の手紙を出したそうで・・・)

 

そして、その手は四国に伸びつつありました
当初は明智光秀とその家臣で元親の妻の義兄・斎藤利三の進言で
一度は四国攻めを取りやめたかのように見えましたが・・・
その後、羽柴秀吉が「討つべき」と進言したことで事態は一変
織田軍の四国攻めが決定されます

しかし・・・・・・これはすぐ終わります
これをきっかけに長曾我部家を救うべく明智光秀が信長公に謀反
「本能寺の変」を起こして信長公を討ちました

長曾我部は明智光秀に救われたのです

 

・豊臣秀吉の元へ

 

その後、明智軍を討った秀吉公と柴田勝家との間に不和が生じ
争いに発展します
この戦いに長曾我部元親は「恩人である光秀と利三を討った仇敵」として
秀吉軍と敵対します
が、賤ケ岳の戦いで柴田勝家は切腹、戦いは秀吉軍の勝利に終わります

長曾我部元親は秀吉に降伏しますが・・・
厳罰を覚悟していた元親へ、秀吉公は笑って許し
馬を与えたり酒を酌み交わすなど
これまでの態度が嘘のような親密ぶりを見せます

こうして、四国は秀吉公の傘下に入りました

ですが・・・・・・

このブログで度々取り上げている
「あの勢力」は、
まだ屈してはいません!!

・・・・・・・あなた方がそれでよいと言われるのなら、何も言いませんよ・・・

・島津&薩摩武士との戦い

 

はい、というわけで豊臣秀吉公の九州平定のお話です
そう、九州と言えば・・・
このブログでもたびたび取り上げてきた、
あの「島津氏」率いる薩摩武士たち
現代においてすら「スーパーサツマ人」と言われその名を知らしめ恐れられる
圧倒的な強さを誇る彼らの勢力下にある九州に
豊臣軍は手を伸ばします
豊臣勢と彼等との戦に元親親子も巻き込まれ出陣します

 

・薩摩武士を知っていたら絶対にやらない事を実行

 

九州征伐の大将は長曾我部家と因縁のある武将の仙石秀久でした
が、彼は軍に長曾我部親子が加わっていたことと
度重なる失敗で焦っていたため・・・
「敵兵はおよそ二万」という情報までも軽視し
「この地を守り援軍を待て」という秀吉公の命に背いて戦端を開きます

この人、バカじゃないかと!!(久しぶりに)

「島津など恐るるに足りぬ」
て言いますけど・・・
このブログで度々取り上げるくらいに彼ら「薩摩のぼっけもん」を知る
エビシャコとしては・・・


「何を言ってるのですかあなたは?」
真顔で問いただしたくなるくらいの無謀です

この後の関ケ原で西軍敗戦濃厚→「敵本陣突っ切って脱出しよう!」を実行して
多大な被害出しながらも家康公の本陣貫通&九州へ生還
・・・という、「事実は小説より奇なり」をしでかした人たちが
この時点で弱いわけがないのです

他にもいろいろ要素あるのですが、割愛します
(後述の記事リンク先を参照してください)

何が言いたいかと言うと
彼等を舐めてかかるのは「手の込んだ自殺」としか言えないのです

そして案の定、豊臣勢は「ぼっけもんを舐めたツケ」を支払わされることになります

 

・島津恐るべし(チェスト待ったなし

 

戦端を開いた仙石秀久は6千の大軍を3千ずつ二手に分け進軍
・・・もうこの時点で負けが確定したようなものですね
正直、2万に対して倍の4万用意しても勝てるかどうか分からない相手です
軍を分けるなど、「各個撃破してくれ」と言うも同じです

続けます
やがて豊臣軍は島津軍(およそ100くらい?)に遭遇、これを撃退します

ですが・・・
これ、かなりおかしいと思いませんか?
基本的に「退却しない」島津が、あっさりやられて逃げるなど
まずありえません
それに、迎撃するにしては数が少なすぎます
仮に、本気で迎撃するならもっと数を置きますし
彼等は基本「降伏」も「退却」もしません
「持ち場を死守」、文字通り兵の一人一人が「死んでも守る」事を是とした戦闘を展開します
それが、薩摩のぼっけもんが恐れられる理由なのです
関ケ原の敗戦後の逃走劇で、徳川本隊へ一丸となって突っ込んで貫通突破した島津軍
彼等へ差し向けられた追撃部隊は「捨てカマリ」と言う、
小部隊単位の戦力が文字通り「死ぬまで戦う」ことを任務として残る時間稼ぎ戦法を喰らいます
先の貫通突破と、この戦術で東軍は勝ちが決定した後で多大な損害を被り
家康公の家臣も犠牲者を出すことになりました
そんな彼らが理由もなく退くなど「ありえない」と言っても過言ではないでしょう

味方の武将・十河存保はこれに違和感を覚え「敵の計略では?」と進言しますが
仙石秀久は構わず追撃を命令

二度目行きます
この人、バカじゃないかと!!

構わず戦端開いた時点で事前リサーチもろくにしてない事は分かりますけど
「少ない数で油断させておびき寄せてボコボコにする」は初歩中の初歩です
たぶん、島津側もこれで釣れるとか本気で思ってはおらず
「乗ってくれたらラッキー」程度にしか思っていなかったのではないかと
なにせ、豊臣には名将が数いますし、何より名軍師の黒田官兵衛がいます
彼らが来ている可能性も考えての、「物は試し」だったでしょう
が・・・
仙石秀久は餌に食らいつきました
あとは釣り上げるだけです

で・・・・・・・

結果、島津の得意戦術「釣り野伏」の餌食になります
「釣り野伏」とは、①②③の三つに分けた部隊を用意し
①は敵を欺く敗走部隊役、②は①を追ってきた敵を迎撃する役
そして③は②が迎撃する敵をその背後から襲う役です

黒田官兵衛や諸葛孔明が使っても恐ろしい戦術ですが・・・
今回コレを使うのが「薩摩武士」と言えば
どれだけ恐ろしい事かお分かりいただけるでしょう・・・

「示現流」確立前から彼らはすでに、高い戦闘力と
その戦闘力を発揮する剣術を身に着けていました

正直、これに少ない数で飛び込むなど
自殺
でしかありません

これによって豊臣勢は退却を余儀なくされますが
仕掛けた島津側もこれには拍子抜けしたことでしょう

なお、この時島津を率いていたのは
あの、島津家久

相手が悪すぎたのと、仙石秀久があまりに軽率すぎたことが
敗因ですが・・・
たぶん、家久公が出張らなくても余裕で勝てたのではないかと・・・

ちなみに仙石秀久は真っ先に逃げ出したので無事でした
(もちろんこれは後で秀吉公にバレてえらいことになります)

 

 

・散々な結果・・・元親の武将としての「死」

 

 

この戦闘の結果、豊臣勢は多大な犠牲を払い撤退します
元親も手塩にかけて育て上げた息子・信親を含む
多くの仲間を失いました

そしてこれ以降、彼は秀吉公に一身に奉仕する人生を歩み
その後、豊臣秀吉の死を追うようにして死去

ある意味、島津勢が長曾我部元親を仕留めたと言えなくもない結末です

なお、真っ先に逃げ出した上に命令に背いて大損害をしでかした
仙石秀久は当然のことながら
秀吉公に厳しく叱責され、領地没収の上に高野山に流されました

そして・・・
長曾我部元親の子・信親の鎧(ボロボロに破損)は父親である長曾我部元親の元へ
島津の使者の手によって届けられました
信親の戦いぶりは、武勇を誇る薩摩武士を唸らせ感動させるほどのものであったため
敬意を表し、せめて鎧だけでも親もとへ届けよという命令が出たのです

当時、敵対していた毛利そして豊臣勢の大名の勢力圏を抜けてまで
四国の長曾我部家に鎧を届ける使者を遣わした事、
あの島津をしてここまで言わしめたことから、信親が島津軍に
どれだけの損害を与えたかが推して知れます

そして、この息子の死に元親は鎧を抱えて号泣
心に深い傷を負う事になりました・・・

なお、九州平定そのものは後日、秀吉公が20万の大軍で引継ぎ
島津軍を降伏させることに成功しています

この圧倒的な大軍で攻めるという戦術は、北条氏・小田原攻めでも使われました
小田原城は今も現存しているので
北条家に興味のある方は足を運んでみてください

 

実際に行ったエビシャコはハトに包囲されました


パダギゾ・・・ゴホン、
ワタシヲタベテモオイシクナイデスヨ?

ではまた

 

(追記)四国の讃岐うどんは実際に美味しいので、ぜひぜひ!!
あと北条氏の汁かけ飯は「みそ仕立て」とも言われています
エビシャコが再現してみた結果、かなり美味しくできました♪

 

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