コラム:裁かれない「報道する者」の罪

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こんにちは、こんばんは
エビシャコです

今回はコラムです

こちらのコラムで
いつか「第2の加害者」の座を得るのではないか
危惧していましたが
ついに現実化したようです

 

・追悼

遅くなりましたが
この場を借りて

木村花 様の
ご冥福を
お祈りいたします

そして、SNSにおける「誹謗中傷」について
法律を論じる段階に今至ったというのは
私としては「遅すぎる」と言わざるを得ません

当サイトで取り上げた暴徒たちの件の他にも
SNS上のいじめ問題・いじめ自殺問題は
かなり前から起きていました
ですが、それらについてここまで大きくなることはなく
結局は「学校と生徒の問題」に終結していました

もしも、これらの事件で大きく取り上げられて
法整備が行われていれば
子供たちが命を落とすこともなかったでしょう

この悲劇も起きなかったでしょう

つくづく、悔やまれます

 

・SNSの誹謗中傷

さて、マスコミが取り上げることもあり
「SNS」の問題ばかりが指摘されています
肝心の重大な事、それも「主犯格」
何故か見落とされてはいないでしょうか?
恐らくお気づきの方もおられるでしょう

原因は「テラスハウス」という
「フジテレビの番組」であり
その件について触れる報道が
あまりにも少ないのです

また、マスメディアの報道が
誹謗中傷を加速した面もあります
特に番組における「演者の言動の批判を楽しむ」という側面
この悲劇を生んだと言っても
過言ではないでしょう

 

・賭けマージャン事件

記憶に新しい話かもしれません
SNS上で運動が起き
法案を与党が撤回した事件です
(賛否両論ありますが、各政党もまたSNSを利用している以上は)
SNSもまた民意を示すツールの一つであると私は考えています)
(あくまで「道具」であって「絶対の手段」ではありませんが)
(追記:火薬庫に松明を投げ入れる真似は二度としてほしくないです、与党と言えど

検事長が辞表を提出するに至ったわけですが
ここではその後の元検事長の処分の軽重については
敢えて触れません
と言うのは
もっと罪が重い、もしかしたら主犯格かもしれない人間が
他にいるからです

まず「賭け麻雀」は一人でできるものではありません
ギャンブルには「プレイヤー」と「ゲームマスター」がいるものです
そして「麻雀」というゲームは4人でプレイするものです

あの場には新聞記者3人がいました
彼らも賭け麻雀に興じていました

その後の処分をトンと聞きません?

該当新聞社の一つははっきりと処分を行ったようですが
「停職一か月」というあまりにも軽いものでした

人一人の人生、人間一人の命
ひょっとすると日本社会の未来が
新聞社の記者一人の一か月分の給与と
同額の価値であると認識しているとするならば

大変危険な組織であると言わざるを得ないでしょう

「報道の自由」という今や「天下御免の免罪符」に等しいものを掲げ
批判が起きても改めず自浄作用すらもないのですから

話は変わりますが

病院関係者の方々への差別が問題になっている今
感染原因の一つにあっさりと
「病院関係者からの感染の疑い」などと
口にできたコメンテイターもまた
重罪に当たると思われます

 

・リニア問題

さて、こちらの記事でも書きましたが
この問題は単に「水問題」で片づけることができないほど
地元の事情・環境・地理などが関わっています
命に直結する問題です

にもかかわらず
6月26日の川勝静岡県知事と金子JR東海社長の会見を
報じた番組は
静岡県内の報道でさえも
JR寄りであり静岡県だけが悪いと言わんばかりの報道姿勢
見せました
川勝県知事が金子JR東海社長にした
自然環境と安全に対する重要な質問を端折ってまで

そして案の定、川勝県知事と静岡県に対する
批判があちこちで起きつつあります
マスコミの思惑通りに

マスコミは静岡県の「敵」になりつつあると言えるでしょう
そして「なりつつある」は「なった」に
現在進行形で変化しつつあります

 

・自由を得過ぎた代償

エビシャコの結論としては
いま議論にある「SNSの法整備」に加えて
「報道の法整備」も進めるべきと思っています

「自由」がいかに貴重であり
それを得るまで多くの血が流されたことは分かっていますが
今、彼らは「自由を得過ぎ」ました
今や「報道の自由」は「免罪符」同然に振りかざされ
「免罪符」同然の効力を持っています
そして今回ついに犯罪の片棒を担ぎました
それも主犯格かそれに最も近い立場で、です
そして、また将来多くの血が流れる可能性が高い事態の
片棒を担ごうとしています
そしてその事態が起きたとしても彼らは責任を逃れ
また別の人間の命を奪うでしょう

好奇心の赴くまま「報道の自由」を掲げて

このようなことは血を流し斃れた先人たちも
望まない事と思われます

「報道」に自浄作用がないこと
人々の声が全く届いていない事
幾度も繰り返されている事
これは重大な憂慮すべき事態です

もう一度言います
彼らは自由を得過ぎました
それを謳歌するのみならず
振りかざし他者に危害を加えました

故に、「自由を規制する」事が必須と思われます

 

ではまた

 

・(おまけ)「議論」は必ずしもすべての「前提」ではない

掲示板やSNSは議論の場になって久しいのですが
「相手の言葉の無意味化」などで
「相手の話を封じる」という動きが
見られるようになってきました

よく見られるのが「相手をわざと怒らせて『こいつは感情的だ』とレッテルを張る」
もしくは
「相手はレッテル貼り屋だと決めつけて締め出す」ですが
こういった事をした結果双方の衝突に発展してしまうことが
多々見られるようになりました

恐らく現代では「話し合いは絶対の前提」という
根拠のない平和的な考え」が根付いているから
起きていると思われます
そう、根拠はそこにはないのです

ではどうして「話し合い」「絶対」になったのでしょうか?
個人的な考えを述べます

争いばかりの歴史から推測するに、
恐らく当初は「争うより話し合いで解決できるなら越したことはない」という
「衝突の回避」の「手段」だったと思われます
と言うのは不思議な事ではありません
自然界においてさえ「勝つ」よりも「負傷を避ける」事の方が
重大な事であるからです
たとえ獲物を仕留めることに成功したとしても
狩人は重篤な傷を負っていたら、
それは狩る側であっても避けられぬ「死」を意味します
人間社会、国といった共同体であっても同じことを当てはめることができます

つまり「話し合い」は「解決の手段の一つ」にすぎないわけです
それでも解決が不可能になれば
やはり争う以外にありません

ですが現代では平和が貴ばれ暴力が嫌われる風潮が強いせいか
この「根幹」が、すっかり隠れてしまったように見えます

だから平気で汚い手段や決めつけであっても
相手を議論から追い出すことで
議論の勝利を宣言するという場面が出てきてしまうのです

そしてこういう手段に打って出た者は大抵は
「相手が武装して報復に出る」という
「少し考えれば当たり前の流れ」が見えていません
議論の場から去った相手は追跡不可能であり
その後はどこで何をしているのかを
伺い知ることは不可能です

たとえ仲間を集めていたとしても
攻撃準備を推し進めていたとしても
気付くことすらもできません

その結果、自己あるいは自己が所属する勢力に
ある日、敵が突如出現し
その攻撃にさらされるという
羽目になるのです

極端な話かもしれませんが
極端にならざるを得ないものが
賭けられていた場合は高確率でそうなります
例えば、その場への攻撃に対する攻撃側と防衛側の話し合い
命にかかわる問題、大金や経営を左右する議論など

特に「命にかかわる問題」は深刻です
ただ平然と首を差し出す人間はまずいません
こじれれば片方(差し出される側)が話し合いで終らせるつもりであっても
もう片方(差し出す側)はそうはいかなくなります

現代日本は確かに平和ですが
暴力事件が起きないわけではありません
今一度、「話し合いの大切さ」について
「言葉のもたらす効果」について
再考してみるべきではないでしょうか?

ではまた

 

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