コラム 「島津の退き口」について【コラム】【無駄話】【駄文】【歴史】 | 回廊蝦蛄日和

コラム  「島津の退き口」について【コラム】【無駄話】【駄文】【歴史】

LINEで送る
[`google_buzz` not found]
[`yahoo_buzz` not found]

////////////////////////// //////////////////////////

コラム  「島津の退き口」について【コラム】【無駄話】【駄文】【歴史】薩摩

こんにちは、こんばんは
エビシャコです

今回はコラムです

というのは・・・以前に取り上げた「薩摩義士伝」について
冒頭で関ケ原の戦いの撤退戦に触れていたので
気になって調べてみたのです
そしたら・・・・・・・
とんでもない事が分かりました

 

 

 

 

////////////////////////// //////////////////////////

・島津さんちの「脱出方法」 in関ケ原

通常、戦場から脱出というと「敵のいない方向へ逃げる」
もしくは「敵の層の薄いところを突破」が定石
「敵を混乱させてパニック状態の中を利用して脱出」というのもありますが
まぁそれはさておき

島津義弘率いる島津軍のとった行動は常識を覆すものでした

 

・島津軍脱出開始!(関ヶ原の合戦 西軍)

島津義弘が脱出を決意した時には関ヶ原の合戦は、すでに勝敗は決していました
小早川秀秋(エビシャコ個人的にお気に入り武将です)の裏切りを皮切りに、
脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも裏切り、
総崩れになった石田三成率いる西軍は敗走
最後まで自軍の陣から動かなかったため、島津軍は孤立状態に・・・

普通ならこの時点では降伏か自決(島津義弘は当初自決しようとしたものの説得されやめたとする説あり)ですが・・・
島津義弘は違いました
この脱出困難と思われる状況から生還=脱出し、薩摩への帰還を決意したのです

信じがたい行動はここからです
島津義弘は家臣に、最も敵の布陣が厚い方角を聞きました

当たり前ですが・・・家康公率いる徳川軍(東側に陣取ってる軍)が最も猛勢と家臣は答えます

そして・・・島津義弘はなんと・・・
その東軍めがけて撤退(という名の突撃)を敢行することを命令するのでした

なお、この時島津軍は総勢約300、対する東軍は約80,000

この数字だけ見ても、いかに絶望的状況か分かりますね
諸葛孔明でもこれを打破するのは困難かもしれません

まして、突撃など狂気の沙汰

ですがどういうわけか・・・
島津軍は突破に成功します

まず福島軍を突っ切り、次に小早川の軍を突破
さすがにまずいと感じた(このままだと家康公の本隊にぶつかるので)松平・井伊・本多の
徳川家でも有名な3家の隊が迎撃します
が・・・これも突破して家康公の本隊の目の前に迫ります

家康公はこれに対し、自ら乗馬抜刀して備えました
が・・・島津軍は本隊直前で転進して本隊をぎりぎりかすって通り過ぎ
関が原から離脱します

・恐怖の「捨て奸(すてがまり)」 島津軍 薩摩隼人の戦い方

 

家康公を脅かされた上に逃げられては面目がありません
松平・井伊・本多の隊が追撃を開始しますが・・・
ここで薩摩の恐ろしい作戦が始動
「捨て奸(すてがまり)」です
どういうものかというと、まず本隊から小部隊が分離します
ただし、その小部隊は鉄砲で武装し、槍や刀を用意
まず鉄砲で追撃してくる敵軍を狙撃した後
鉄砲を捨てて槍や刀に持ち替え、突撃
あとは文字通り「死ぬまで」戦う・・・というものです


狙撃の際に座禅を組み座り込んでいることから「座禅陣」とも言われます
小部隊は確実に全員戦死ですが、その間に本隊が逃げる時間は確実に稼げます
なにより、こんな連中を相手したくないでしょう
私もです

 

・結果

島津豊久や長寿院盛淳などが戦死しましたが、大将の島津義弘は脱出
兵力約80名ほどが残ったそうで、彼らはそのまま帰還・・・
せず、
なんと大阪を経由して人質を奪還、堺の港から海路(船)を使って薩摩へ帰還しました

一方、島津軍に突撃され自陣を貫通された挙句に追撃命令を出すも失敗した徳川軍はというと・・・
井伊直政が負傷(後日、この時の傷が元で死亡)、家康公の四男の松平忠吉君も負傷、
本多忠勝も愛馬を殺されてしまうなどの散々な損害を被る羽目に・・・

ちなみにこの時、どうして島津がこんなムチャクチャをやったかというと
敗北確定しているので、大将の島津義弘だけでも脱出・・・などという甘い考えではなく
最悪、大将の島津義弘ただ一人さえ薩摩にたどり着けばいい、というとんでもない発想を実行したためだそうです
そういうわけなので、ほぼ全軍が死兵(命を捨てた兵士=バーサーカー)状態
そして島津軍は殿様(島津義弘)への忠義で自ら率先して駆け付けた戦士ばかりが集まっていて
前述の「捨て奸」も、命じた人数より立候補者の方が多すぎるという、とんでもない事態に・・・
対する徳川方は、勝利が確定しているため、今更こんな事で命を落とすのは嫌だ、という考えでした
まぁ当たり前ですが

そして・・・この時の島津軍生存者が約80名・・・と、いうわけではなく
戦場で命拾いしたり戦闘中に仲間とはぐれたりとかして
個々人で撤退を余儀なくされた兵士がバラバラに薩摩に帰還しているので
実際の生存人数は80名より多めだそうです

・・・・・おかしいでしょうこれ
普通は数の力で殲滅されてますよね?
一騎残らず撃墜されててもおかしくないですよね?

 

////////////////////////// //////////////////////////

・さらに・・・ 関ケ原の合戦後日談

当然の事ながら、このままでは面目が立たないので
後日、徳川方は薩摩討伐の軍を結成、討伐へ向かいます
が・・・・・両軍衝突前に家康公に島津義弘からの謝罪の使者が届き
戦は寸前で止められました

あっさり回避できたのは・・・前述の徳川軍貫通脱出のおかげでしょう
たった300でアレなのに、本土にまだ数千から何万という戦力がいるとか
悪夢でしかないです
面目があるとはいえ、そんなところに兵を送るのは文字通り兵に「死ね」と言うに等しいかと・・・

その後の交渉の末、島津薩摩は西軍所属大名としては異例の「本領安堵」を取り付け、
徳川も「薩摩義士伝」で語られたような「飼い殺し骨抜き作戦」へとシフトします

家康公のお気持ち、すごく分かります
エビシャコが指揮官の立場でも、相手したくないですから

もし万一、関が原で脱出経路が家康軍本隊を直撃するコースだったり
うっかり本体を直撃する経路に迷い込んだり
逃げるのやめて大将(もちろん家康公の)首獲って討ち死にとか言う狂った考えに至っていたら・・・
その後の歴史は大幅に変わっていたかもしれませんね

ではまた

 

ポチリとお願いします


人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

 

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ